先生はかつていわれた、「美人にほれこむように善行を好み、腐った臭いを嫌うように悪徳を嫌悪できたなら、その人はそれで聖人である」と。
わたしははじめに聞いたときは、いとも簡単なことだと思ったが、あとになって実際に経験してみると、そのように努力することが実際には困難なことがわかった。たとえば、ある一瞬、意識的には善を好み悪を憎むことを自覚していても、無意識のうちにいつのまにか雑念が混じってしまう。雑念が混じってしまうと、もはや、美人にほれこむごとく善行を好み、腐った臭いを嫌うように悪徳を嫌悪するという人間ではない。善行を真実に好むことができるとは、いつも意識が善であるということであり、悪徳を真実に嫌悪できるということは、意識にいつも悪徳がうかばないというこであり、どうしてそれで聖人でないことがあろうか。ただしい学問とは、意識を純一誠実にすることに他ならない。
王陽明「伝習録」
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